YARO会のルーツ
 

加 藤 良 一
 


(2005年10月6日)


 

◇きっかけは小出郷での出会い

2002年8月、新潟県小出市で第14回関東おとうさんコーラス大会が開かれた。この大会は、第一部が男声合唱の歌合戦、つづいて場所を変えて第二部で懇親会をやるのが恒例となっている。歌あり酒あり(そして応援の女性あり)、熱気に溢れる懇親会場を一人の男が、あちこちの合唱団のあいだを行ったり来たりしていた。その男は、なにやら皆に相談を持ちかけている様子だった。話に同調した者が、つぎには一緒になり、さらに別の団へと巡回していった。
 「こんなに男声合唱団がたくさんあるんだから、みんなで何かやりませんか?」 「小さな団でもいくつか集まれば大きなことができるよね。何か面白いことをやろうよ。」 「いいね、やろう、やろう!」
 わいわいがやがや、ビールの勢いも手伝って、話はとんとん拍子にまとまってしまった。こういうときの男たちの結束力はすごい。この最初のきっかけを作った男が、イベントメーカー森 浩さんだった。森さんは埼玉の男声合唱団メンネルA.E.C.と東京バーバーズに所属し、幅広い合唱活動をしていた。

 

◇待ちに待った旗揚げ

そして、小出郷の夏から4ヶ月後の12月、男声合唱プロジェクトYARO会が正式に発足した。埼玉県で活動する男声合唱団イル・カンパニーレ(川越市)、男声合唱団メンネルA.E.C.上尾市)、男声合唱団コール・グランツ(栗橋町)、ドン・キホーテ男声合唱団(志木市)、男声あんさんぶる「ポパイ」(春日部市)の5団体で結成することとなった。
 プロジェクトの名前と合同演奏の指揮者を誰にするかは、思いのほかすんなり決まったが、合同演奏曲を何にするかはそう簡単にはいかなかった。いつもはあまり歌うことができない曲で、しかも大きな合唱団にふさわしい曲がいい。役員会ではつぎつぎと候補曲があげられ、何度か話し合ううちに候補が絞られていった。そして、最後は多田武彦作曲の『富士山』に落ち着いた。意外といえば意外であり、反面当然過ぎるものでもあった。議論百出した中で、YARO会が初めて歌うのだからやはり男声の定番『富士山』にかぎる、タダタケあっての男声合唱ではないか、というのが団員の総意となった。
 YARO会の名付け親、コール・グランツのトップテナー野口享治(たかはる)さん。「みなさんのおかげで本当に名実ともにでっかい名前になってきているなぁと感じています。男集団、野郎どもの“やろう”と“いろいろなことにトライしよう”の『やろう』の二つをひっかけています。なんといってもこのプロジェクトは、言葉のとおり、各合唱団員が『やらされている』といった受身ではなく、演奏会の意義を明確にし、自らそれにむかってトライしていくことに大きな意義のある集まり、プロジェクトなのだと思います。」
 野口さんは、埼玉を代表するといっても過言でない名テナーである。自分の子供に名前を付ける予定も立たないうちに、YARO会の命名が先になってしまったが、それはさておき、命名者として歴史に名を残すことを大いに誇ってもらいたい。

 

◇YARO会と多田武彦先生

YARO会の強みは、ふだんはそれぞれの団で活動している現役のコーラスメンが、そのまま5団体結集するところにある。いわゆる個人が寄り集まった季節合唱団ではない。たとえば、ベートーヴェンの第九を歌いたい人この指とまれ式にやるとしたら、さまざまな人が参加してくる。中には、ふだんは歌っていないのだが久し振りに第九が歌いたくてやってきましたという人もいるだろう。したがって、パートのバランスもむずかしいだろうし、団としてのまとまりに欠けるおそれもある。
 その点、YARO会は、大学の東西四連や六連などに似ている。合同曲が決まれば、各団であらかじめ練習しておいてから全体の合わせをすることができる。それと、自動的にほぼ四声の配分が揃った合唱団となる強みがある。いってみれば、社会人の五連である。
 『富士山』を歌うにあたり、まずは作曲家の多田武彦先生に教えを請うた。多田先生は、 eメールはやらない。だが決してITに弱いわけではない。パソコンを駆使して作った音源をCDやMDにコピーして送っていただいたことをみれば、そのことは明白である。要するに、音楽の話は文章ではなかなか伝えられない、電話でないとだめとおっしゃる。そのとおり、音楽の話題になると、電話口で歌いながら解説してくれるので、いつも小一時間はかかる。長いときは一時間を超してしまい、電話機内蔵の録音テープが足りなくなったこともある

 

◇気合の『富士山』

1回ジョイントコンサートは、2003年11月に開催した。事務局長を務めたのは、言いだしっぺの森浩さん。5団体の集まりとはいえ小さな団ばかりだから、すべて集まっても80人ほどだが、これだけの男がひとつの目標に向かって力を合わせて突き進むのは、かなりエキサイティングな光景である。合同練習は、メンネルA.E.C.指揮者の須田信男さんとドン・キホーテ指揮者の村上弘さんが技術スタッフとして指揮に当たった。合同練習が終ったあとの飲み会がまた楽しいもので、会場手配がたいへんだが、それまでの合唱の世界がもうひと回り広がるのを実感したものである。
 コンサートのオープニングは、団歌のエール交換、ついで各団得意のレパートリーを披露したのち、最後に『富士山』を5団体で演奏した。指揮者は、前埼玉県合唱連盟理事長小高秀一先生にお願いした。コンサートの結果については、ホームページに詳しく紹介してあるのでそちらをご覧願いたいが、多田先生から「その年に演奏された中で、まちがいなくトップクラスに入る」とお褒めの言葉をいただいたことだけは、書き記しておきたい。

 

◇合唱講習会から生まれた『秩父音頭』

YARO会第二弾として、2005年2月、多田先生を埼玉にお招きして「多田武彦合唱講習会」を開催した。北は北海道から南は九州まで、全国から男声合唱ファンが参加していただいた。多田先生は、冒頭で、これまでほとんど公表したことがないというご自身の生い立ちから、銀行マンののちに作曲家として自立されるまでの経歴について話された。
 講習は、多田メソッドともいうべきテキストに基づき、さまざまな音源を駆使しながら進めるもので、予定の時間を30分もオーバーするほどの熱のいれようだった。多田先生は事前に会場の下見をし、音響の確認や事務局との綿密な打合せをするなど、何につけても手抜きをされない。そのことは作品にもよく表れていることを肌で実感させていただいた。余談だが、このときのテキスト合唱練習の際の留意事項』の要約を数回に分けて全日本合唱連盟発行のハーモニー誌に連載することになったとのこと。
 第1回コンサートに続いて合唱講習会開催、と多田先生からいろいろ指導をいただく機会が増えたことは、YARO会の活性化に大いに役立った。そんなお付き合いをするうちに、多田先生からYARO会に男声合唱曲をプレゼントしてくださるとのビッグニュースが飛び出してきた。そしてほどなく届いた手書きの楽譜が『秩父音頭』であった。鉛筆と定規を使ってきれいに書かれた譜面は、先生の几帳面な性格がよく現れている。このままで印刷したほうがみなに喜ばれるはずだから、手を加えずに手書きのままの形で出版した。

 

◇次なる目標は『月光とピエロ』

さて、YARO会は、第2回目のコンサートを本年12月に予定している。合同演奏は、清水修作曲『月光とピエロ』である。合同演奏の指揮者は、埼玉県連副理事長の大岩篤郎先生。大岩先生は現役のオペラ歌手でもある。多くの合唱団の指揮もされていて、男声合唱への造詣も深く、YARO会メンバーの信頼も篤い。今度の事務局長は、ポパイに限らずメンネルコール広友会などあちこちの合唱団で活躍している関根盛純さんが担当。関根さんは、筆者、須田さんと共に三人で多田武彦合唱講習会を企画した番頭さんである。
 YARO会は、どの団もさまざまな事情を抱えてはいるが、男声合唱の魅力の虜になった男たちが、ひたすら真摯に歌い続け、新たな出会いと発見に期待を膨らませて、つぎのコンサートを成功させたいと願っている。

 


この記事は、日本男声合唱協会JAMCAの「じゃむか通信」第29号(2005年8月27日発行)に、合唱団紹介として投稿したものです。JAMCA事務局長の川瀬治通さんの許可を得て転載しました。JAMCAは、日本を代表する男声合唱の総元締めのような団体です。まだ加盟されていない合唱団はぜひご参加ください。ご一緒に、合唱文化を楽しみ、かつ広めてゆきましょう。